京都大学の東側に位置する吉田山、古くは、神楽岡と呼ばれていました。 緑豊かな自然環境を維持し、歴史的意義を有する建造物や石碑も多数あります。
吉田山は、京大時計台の横にあった最初の天文台の転移候補となったことがあります。 大正末期からの近代化による光害、東山通りの市電開通による振動公害を避けるため、 天文台の移転が計画されましたが、候補地を探した結果、現在の花山天文台への移転が決まりました。
吉田山は、京大時計台の横にあった最初の天文台の転移候補となったことがあります。 大正末期からの近代化による光害、東山通りの市電開通による振動公害を避けるため、 天文台の移転が計画されましたが、候補地を探した結果、現在の花山天文台への移転が決まりました。
吉 田山の東にある真如堂は、正式には鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。 永観2年(984年)の創建で紅葉の名所です。 真如堂では、晴明紋の入ったお札も配られていて、そのお札の由緒書には、次のような話が書かれています。 晴明が死んだとき、不動明王が閻魔大王の宮殿に行き、 「この者は寿命が来て死んだのではない。横死(不慮の死)であるから 再び娑婆(しゃば)へ返してほしい。」と頼みました。 閻魔大王は承知して晴明に、「これは私の秘印で、現世では横死から救い、 来世では往生がかなうものである。この印はお前一人のために渡すのではないから、 娑婆に持ち帰ったら、この印を施して人々を導け。」と言いました。 晴明がこれを受け取るとたちまち蘇生して、懐中を見るとこの金印がありました。
晴明はこの後、八十五歳まで生き、生涯この印を人々に施し、死後に 不道明王と蘇生の印は、真如堂に納められました。 このいきさつが【閻魔大王蘇生金印傳】に書かれています。
晴明はこの後、八十五歳まで生き、生涯この印を人々に施し、死後に 不道明王と蘇生の印は、真如堂に納められました。 このいきさつが【閻魔大王蘇生金印傳】に書かれています。